
第81回「優しい顔」
記録が大切だと感じる瞬間のひとつに、”過去の自分が書いた文章に、今の自分が励まされる時” があります。
5年前に書いた「優しい顔」というタイトルのエッセイもその一つです。
長いのですが、よかったら読んでみてください。(^ν^)💕
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「優しい顔」
年を取るのが嫌だと思うことはあまりありません。年を重ねるごとに見えてきたこと、気付いたこと、得たことが沢山ありますから。
でも、加齢に伴う容姿の変化を受け入れることが、わたしには時々難しく思えます。
わたしは今、50代最後の年を過ごしています。
わたしが若かった頃、59歳のイメージと言えば、「老人」でした。でも、自分が59歳になってみてわかったのです。違う、と。
59歳にもトキメキがあります。好奇心も憧れもワクワクも恥じらいも、瑞々しさだって残っています。
趣味も好みも、若い頃とそんなに大きな違いはありません。 以前好きだったものは今も変わらず好きなままです。
映画が好き、ドライブが好き、音楽が好き、赤毛のアンが好き、ピンクが好き、揺れるピアスが好き、いちごのかき氷が好き。
中年になったら自然に演歌を聴くようになるのかと思っていたけれど、それも違っていました。
ダフトパンクだって、ペンタトニックスだって、ごく普通に聴いていますし。
そんなふうに、わたしはわたしのままなのに、わたしの意志に関係なくわたしの容姿は変わっていくのです。
時々思います。
体って着ぐるみみたいなものだなぁ、と。「少女」という着ぐるみから、「女性」の着ぐるみ、そして「中年」の着ぐるみ、やがて「老人」の着ぐるみ、と着替えていくのだけれど、中にいるのは同じわたし。
でも、外側の変化の方が速いものだから、内側のわたしは、そのギャップに違和感を持ってしまうのです。
違う、違う、まだその着ぐるみじゃない!と。
外側のわたしは変わっていきます。自分が思うよりもっと速いスピードで。
その事実を受け入れるのが難しいときがあるのです。
20代で初めて髪の中に白髪を見つけたときは驚いたけれど、50代で初めて白い鼻毛を一本見つけた時はすごいショックを受けました。
目尻の皺も口元の皺も、笑い皺と呼ばれているうちはまだよかったのです。
でも、いつの間にか笑っていない時もしっかり目立つ、まるで彫刻刀で削ったような皺になっているのですから、本当に溜息が出ます。
温泉で大きな鏡に全身が映ると、絶望的な気分になります。
丸いお椀を二つ並べたように形の良かった柔らかな胸は、見る影もなく垂れ下がっているし、くびれがなくなって弛んだおなかには妊娠線がくっきりと浮かんでいます。
沢山の子どもたちを産んだ勲章よ、と言われても、こんな勲章欲しくない。
こうやって書いていると、容姿が全てだと思っているように感じられるかもしれないけれど、そんなつもりはありません。
でも、それが全てだなんて思っていなくても、若さや美しさを失っていくのは、やっぱり寂しいことなのです。
人はどうして年をとるんだろ? どうして老いていくんだろう?
全知全能の神様なら、年を取らない人間を作ることだってできたでしょ?死ぬまで綺麗で元気な人間を作ってくださったらよかったのに。
なんて思ったりもします。でも、神様はそうされませんでした。
どうして?
きっと、それが必要だったから。
老いることには、きっと何かの意味があるのでしょう。
じゃ、老いていくことに、いったいどんな価値があるのかしら?
受け入れがたい老いを受け入れるために、わたしはいっぱい考えました。
そして思ったのです。
目が不自由にならないと目のありがたさがわからないように、手足が不自由にならないと手足のありがたさがわからないように、老いて 失うことで初めてわかることがあるのかもしれないな、と。
衰えて思うようにならない体から忍耐を学べるだろうし、感謝も謙遜も寛容の心も、もっと強くなるかもしれないしね。
…..そう思うよう 努めてはいるのです。
でも、それでもなお、老いていく現実を受け入れきれない自分が時々顔を出してしまいます。
いつも身ぎれいな母が、入れ歯を外し口を開けて眠っているのを見た時は、心底ぎょっとしました。
あんなに綺麗な母だったのに……。
わたしも母と同じように、老いへの道を一直線に歩んでいます。
この先わたしが今より若くなることはないし、年々綺麗になっていく 娘たちと違って、わたしが年々美しくなっていくことはないのです。
わたしは将来にどんな希望を持ったらいいのだろう? どんな自分を目指したらいいのかな?
そんなある日でした。
「あれ? お母さん、こんなにちっちゃかったっけ?」
中学三年生の一心がふいに言いました。
とうにわたしの背を越している息子ですが、久しぶりにわたしと並んで、あらためて驚いたようです。
「お母さん、ちっちゃ!ほんとにちっちゃいねぇ !」
息子が何度も言うものですから、わたしはおどけて、
「ちっちゃくて可愛いでしょ?」と、彼を見上げました。
すると息子は、まじまじとわたしの顔を見つめ、それから真顔で言ったのです。
「こんなしわくちゃの顔は、可愛い顔とは言えないなぁ」
力が抜けました。
本当にがっかりしました。
そんなにはっきり言わなくたっていいじゃない。
ここは、「うん、可愛い!可愛い!お母さんは可愛いよ~!」と、お兄ちゃんたちみたいに軽く受け流してくれたらいいじゃない。
じっと見つめて真面目な顔でそんなこと言うなんて、ひどいよ。
「じゃ、どんな顔なのよ?」わたしは口をとがらせました。
すると息子は、すぐに答えて言ったのです。
「優しい顔だよ」と。
その瞬間、
柔らかな光が胸いっぱいに広がったようにわたしの心は温かくなりました。
泣きたくなるような温かさです。
優しい顔……
子どもたちの何気ない一言は、時にわたしの目を開き、行くべき道を示してくれます。
この時が正にそうでした。
そうか!
そうだね!
そうだよね!
60代になっても、70代になっても、80代になっても、シミと皺で くしゃくしゃになっても、優しい顔にはなれるよね!
わかった!
何を目指したらいいのか、わたし、やっとわかったよ!
なんとも言えない晴れやかな気持ちになったわたしは、もう一度息子に言ってみました。
「ねぇ、一心くん!お母さんの顔はどんな顔って言ったっけ?」
「え? さっき言ったでしょ?」
「もう一回言ってよ」
「やだよ」
「お願い!」
「やだよ」
「お願い!ねっ!お願いっ!」
「しょうがないなぁ」
息子はわたしを見降ろして、さっきの言葉を繰り返してくれました。
「お母さんの顔は優しい顔! しわくちゃだけど、悪くないよ!」
**********
……
この文章を書いたのは59歳の時ですが、もうすぐわたしは64歳。
この時決心したように、わたしは”優しい顔” を目指して月日を重ねているかしら?
久しぶりに読み返し、決意を新たにした夜でした。
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